徳岡神泉の『刈田』に祝福される

【衝撃を受けた絵】徳岡神泉の『刈田』に祝福されろ

徳岡神泉の『刈田』に祝福される

どうも。カルチャーマニアのSai(@saisei_to_hakai)です。

これは、徳岡神泉という画家の絵です。何に見えるでしょうか。

【いちばん衝撃を受けた絵】徳岡神泉の『刈田』に祝福される

ある日、なにげなく見た『20世紀の絵画』という本。日本人画家を中心に、いろんな絵がのってました。

パラパラめくってると、一枚の絵に手が止まりまして。それがこの絵『刈田』でした。刈り取られた稲株が点々と描かれたシンプルな絵です。

しかし徳岡神泉の描いた稲株は、地中に埋まった骸の指に見えたのです。

「そんな視点があったのか」と衝撃を受けました。

なんで衝撃を受けたのか、絵に何を感じたのか、お伝えします。

シン
美術ファン歴30年の僕がお伝えするよ!

【衝撃を受けた絵】徳岡神泉の『刈田』に祝福されろ

【いちばん衝撃を受けた絵】徳岡神泉の『刈田』に祝福されろ

田舎の農村育ちの者にとっては「稲が刈り取られた田んぼ」なんて、子供の頃から見慣れてるわけで。毎年秋になるとくり返す、何の変わり映えもしない飽き飽きした日常風景です。

金色に実った稲穂が風に揺れて美しい風景はSNSにアップされますが、わざわざ刈られた後の稲株を「美しい」とアップする人はいないでしょう。

しかしこの絵『刈田』は、一定のリズムを感じさせる「刈られた稲株」が描かれています。

そして、力が加わって折れ曲がったであろう稲や、調子外れの稲によって「人の手」のように見えるじゃありませんか。

子供のころから毎年見てきた、刈り終わった田んぼの風景。そこに「人の手」を見い出すような視点、僕にはなかった。「そんな見方があったのか!」と衝撃でした。

徳岡神泉の『刈田』に祝福される

人の手が地中から伸びている、ということは骸。この土地に埋まった人々の死骸。先人たち。

地面(水面)の色は寒々しい鉄のような色。自然の母性というより、厳しい父性を感じさせる土壌。

そこからわずかに伸び出た指。その指先には傾いた陽の光が柔らかく当たって、唯一、夕食を迎える家のような温かみを感じさせる。

どう見ても全員が恵みを手にするわけじゃない。わずかに手が届くかどうかという曖昧な光。あまりにも厳しい。厳しいがその「長く厳しい自然との戦いから、僕らがわずかにつかみ取った収穫を祝う」

そういう絵なんじゃないかと。めちゃくちゃ静かな画の中に、人々の壮大なストーリーを感じたのであります。

『刈田』は徳岡神泉が1960年に描いた作品

『刈田』が描かれたのは1960年。(昭和35年)

徳岡神泉が晩秋目にした光景をもとに描いた、とのことで、本人によると「地平線近い落日が刈田一面に映じ、とても美しく感じたのです。稲株は思いのほか整然と並んでしかも微妙なリズムをもち、水面は空の紺青が影を落して、余光というか幽かな変化をみせていました」で、ふと思い出して描きたくなって制作したそうな。

これを描いた画家である徳岡神泉はすでに亡くなっていますし、この絵がメディアに出てくることもなければ情報もほぼ無いので何を思って描いたのかはわかりません。

自分が感動して勝手に解釈しただけですが、作品は見る者の感じることがすべてかと思います。

徳岡神泉『刈田』で絵のすごさを思い知る

全く同じ「刈り終えた田んぼ」でも、見る人によって全く別の見方がある。今まで立っていた地軸がひっくり返るような体験でした。

おそらく自分が田舎育ちじゃなかったら、この絵を見ても何とも思わず素通りしていたことでしょう。

一見シンプルな絵ですが、モチーフや構図や色彩によって饒舌な表現ができる。ということもわかった。

偶然、似た体験を持つ人が目にして気づきや感動を得ることがある。と思い知った。

そうした、一枚絵を見ることで巻き起こる体験。『刈田』を見ると思いだすのであります。絵ってすごいよね。

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